せきららキララ

木ノ子が生い立ちとか色々と自分語りするだけのブログ

あなたの心が欲しいだけ

どうも。わたくし、性自認はシスジェンダーの女性、性指向はセクシャル・フルイディティです。あ、これ、カミングアウトじゃなくて自己紹介ですよ。

皆様、「SOGI」という言葉をご存知でしょうか?
性指向(Sexual Orientation)と性自認(Gender Identity)のことで、性的少数者を含む全人類の属性(語弊がある)を表す言葉です。マジョリティの場合は「性自認がシスジェンダー(精神的な性と身体の性とが一致している)、性指向がヘテロセクシャル(異性愛)」といった感じ。ちなみに、性指向と日本語の読みが同じ「性嗜好」は、SOGIとはまた別のプラスアルファ的要素ですね。各種フェティシズムペドフィリアなんかが該当します。
よりメジャーな用語である「LGBT」がセクシャルマイノリティのうちの一部のカテゴリの頭文字を取ったものなのに対して、SOGIはどんな人も対象という違いがあります。だから、冒頭のはカミングアウトではなく自己紹介。
SOGIについて詳しくはこちら↓
sa-chan.net



さて、それはそれとして。性指向が「セクシャル・フルイディティ」とは?
上記のサイトにも書いてませんね。まあ一番近いのがパンセクシャル(全性愛)なんですけど、なんか違うなーと思って色々と調べてて最近「これかも」と思った概念です。
ざっくり言うと「好きになる人の性別が不定」。fluidとは流体のことです。ジョニー・デップの娘のリリー・ローズがカミングアウトしたことで有名…らしいけど私は最近まで知りませんでした。
パンセクシャルは「どんな性別でも好きになる」ですが、私の場合は性別が最後に来るんですよ。「たまたま今好きな人が女性/男性だった」みたいな。そして時と場合による。とはいえ、割かし女性が好きなときの方が多いなーとも思ってます。
参考になるのはこのへんかな。
www.google.co.jp
koigaku.machicon.jp

ただ、これバイセクシャルパンセクシャルの方々とも共通の問題かもしれないんですが、「男女ともに恋愛対象になりうる」ということで「それなら異性と恋愛したら結婚もできるし普通の生活ができるじゃん」とか「ストライクゾーンが2倍とか人生楽しいでしょ」とか言われるのが何だかなーという感じです。別に見境ない訳でも節操がない訳でもないからな。
あと個人的には容姿の好みがほとんどありません。だから男女というのを意識してないのかも。男だったらこういう顔が好きで女だったらこういう顔が好きで…的なのがほぼないね。今まで好きになった人は性別どころか顔も身長も体型もバラバラ。タイトルのとおり心に惹かれるので入れ物はさほど気にしてません(というと逆に怒られるのかもしれんな)。
でもたぶんこれはフルイドやパンセクやバイ全体の傾向ではなく私個人の嗜好だと思います。



さてここからは私のフルイディティなエピソード。恋愛遍歴を赤裸々に語っていきます。自分語りは別にええわ、という方はブラウザバック。興味のある方につきましては、対して経験値は積んでない割に長いのでご承知おきを…。


小学校低学年のときは、まあ刷り込みのように「女の子は男の子を好きになるもの」というステレオタイプが染み込んでいたことと、「好き」のレベルが「一番の仲良しになりたい」程度なので、クラスの女の子と「○○くんが好き」という話はしていました。ただ、学年が上がるにつれて「どんな人がタイプ?」と言われたり、流行っていたプロフィール帳にそういった質問欄があったりするとちょっと言葉に詰まってました。特に「芸能人に例えるとどういう顔の人?」というのが。ぶっちゃけ、さっきも書いたとおりあの頃から今まで一貫して顔とか容姿はどうでもいいし、そもそも習い事を掛け持ちしまくってたせいでテレビ見てなくて芸能人が分からない。その場しのぎの「優しい人が好き」で乗り切ってましたね。
ただ、漫画みたいな恋への憧れはあって、好きだった男の子が転校する前の最後の登校日、帰る前に誰もいない教室でほっぺにキスしちゃったりとか割と大胆なことはしていた。しかも当時小2。たまたま廊下からそれを見てたやつが1人いたことに気づかず、後日バラされ、田舎特有の母親間のネットワークで自分の母にまで伝わり、母と祖父母に「そんな破廉恥なことをするな!みっともない!」と怒られたものです。破廉恥て。8歳児のほっぺキスぐらいで騒ぐ大人の方が破廉恥なのでは?

小学3年のときに同じクラスになって意気投合した女の子がいて、当時は親友だと思っていたんですが、5年生や6年生になってクラスが別々になると同じように別クラスになった他の友達とは違った寂しさがあって。たまに一緒に帰れると他の友達よりも嬉しくて。これは恋だな、と。
当時はレズビアンバイセクシャルという単語どころか同性愛、セクシャルマイノリティという概念も知らなかったけど、好きという気持ちが悪いことな訳がない、と思っていました。
小6のある秋の日の帰り道(ほんと秋冬に何か起こること多いな)、その子が「誰かを好きになるっていうのが分からなくて、周りの恋バナについていけない」と言ったのを受けて、ぽろっと「私は今○○のことが一番好きかも」と言ったところ、その子はぎょっとした顔で一瞬こちらを見たのち走り去ってしまい…あ、これまずいことなのか。という認識が初めて芽生え、同時に「もう仲良しには戻れないのかな」という寂しさも生まれました。

中1になり、いじめについての記事に記載したとおり
kinoko-konohanadou.hatenablog.com
男子から暴力を受けるようになったことで男性への不信感が増大したこともあり、より女性を意識するようになりました。小6の頃に告白した子のことは勿論好きだったけど、クラスメイトの一人の女の子と親友と呼べるレベルで仲良くなり(前回の記事
kinoko-konohanadou.hatenablog.com
で言及した、リストカットをカミングアウトした子のうちの片方です)、あるとき思い悩む私をその子が抱きしめてくれたことがありました。

その温かさと柔らかさたるや。
ずっとこうしていたい。いつもそばにいて、寂しいときには抱きしめてほしい。甘やかな時間をもっと過ごしてみたい。恋なのかどうかは分からないけど、その子に触れたい、触れられたいという気持ちが湧きました。

その後、スキンシップ中毒(?)になった私はことあるごとに腕を組んでみたり自分から抱きつきにいったりしていたのですが、ある日その子が真顔で「あのさ、木ノ子って私に何してほしいの?恋人になりたいの?ハグだけじゃなくてキスとかしたいって思ってる?」と言いました。
その声があまりに冷たくて、小6のときの失敗を思い出して、私は「そういうのじゃないよ」と返すと彼女は「だよね。そうだったら気持ち悪いもん」と締めくくりました。
気持ち悪い。やっぱりそうなのか。そのときからインターネットで色々と検索して、自分がレズビアンと呼ばれる分類なのだろうと自認するようになりました。


そして学年が上がり中2へ。なんと上記のハグの子のみならず小6のとき好きだった子も同じクラスに。もう一人の友人も含め4人グループでつるんでいました。端から見たらただの仲良し4人組、私にとってはとんでもねえ関係性。
何のタイミングだったかははっきりと覚えていないのですが、たぶん掃除の時間かな。家庭科室の前の人気のないスペースで、小6のとき告白した相手と二人きりになった際にふと聞いてみました。「ねえ、私が昔好きって言ったの覚えてる?」
一瞬ぴくりとしたものの「覚えてるよ」と返ってきました。「うん、好きだって言われたのは純粋に嬉しかった。でもどうしたらいいのか分からなくて…避けててごめんね」
気持ち悪い、が返ってこなくてよかった。ありがとう、これからも友達でいてね。そんな感じで小6の私は許され、以降はしばらく誰かに対して恋心が芽生えることはありませんでした。


とはいえ高2のときは同じ部活の男子が好きだったし(告白して玉砕)、大学1年のときは男性の先輩に告白されて付き合っていました。ここで私は「レズビアンではなくバイセクシャルなのか」と思うようになります。
しかしながら、大学生ともなると「恋愛関係にあるならセックスするもの」という暗黙の了解のような概念が蔓延っているのがなぜか苦しくて。というか正直なところ男性器が苦手で怖かった。私が女性の体を持っていて、痛みやリスクを負う側だということもあり、その先輩とはセックスができないままのちのち別れることに(それだけが原因ではない)。2年も付き合わせてまじごめん。

男性とセックスができないのに好き、ってなんだろう?私、バイセクシャルでもないのか?と疑問符が絶えない状態に。
当時、彼氏とセックスができないことを含め、所属していた楽団の同パートの女子とうまくいっていないこと(いじめの記事冒頭参照)など、人間関係の相談に乗ってくれてた女の子がいました。A~Dはいじめの記事で使ってしまったので、しばらくぶりですが仮にEちゃんとでもしましょうか。このEちゃんが超・聞き上手。そのせいか友達もとても多い子でした。

でも、以前リストカットが母にバレてしばらく無視された経験から、Eちゃんに完全に心を開けていた訳ではありませんでした。友人として大切だし、相談に乗ってくれることはとてもありがたいけど、根っこの部分を話したら離れていってしまうかもしれない。だから肝心なことはぼかして、家でひとりで泣いてみたり、mixi(めちゃくちゃ懐かしいけど当時SNSとしてはこれが全盛期だったんですよ)でぽろっと呟いてみたり。


そしてそんな中、ちょうど母が更年期に入り、毎日のように「死にたい」とメールしてくるようになったのです。
ちょっと待ってくれと。中学生の頃につらくてつらくて自分の体を傷つけてた私を否定して無視してなかったことにしたあなたが、何で私にストレートに助けを求めてくるの?
でも、おそらく母は祖父母や父や友人に言えないから私に言ってきたのだろうということや、私がキレて無視して本当に死んでしまったら後味が悪すぎるし金銭面含めた援助が止まってしまうし、ということで、メールやネットゲーム(牧場を作る穏やかなゲームで、お互いにアイテムをあげたりイベント攻略を援助しあったりして気持ちを和らげるという魂胆)での介護生活が始まりました。


彼氏とセックスができない。同パートの女子とうまくいっていない。母が死にたいと言ってくる。正直なところ、中学生の頃と同様かそれ以上のストレスでした。自傷行為の記事に書いたとおり足を不規則に切ってたのがこの頃。だいたい大学2年~3年ですかね。色んな話を聞いてくれるEちゃんに執着、あるいは依存していました。

ある日、mixiでとびきり病んだ日記を投稿したところ、Eちゃんからのコメントが。
SNSなんかに弱音書き散らしてんのかっこ悪いで。私が聞いてあげるから、そういうのは内緒にしとくべきや」
…と言われても、どうせ本音を伝えても私の元から離れるんじゃないかと思って怖かった。でも、もしかしたら、と藁にもすがる思いで「いっぱい話したいことがあるから、今日うちに泊まってほしい」と下宿に呼び出すと、彼女は本当に私の家に来て同じベッドに添い寝をし、夜じゅう話を聞いてくれました。彼女の方から腕を伸ばして抱きしめられて、それがあったかくて嬉しくて。あのときの恐怖はどこへやら、生い立ちもどうしようもない気持ちも、包み隠さず全部話しました。

ふと顔を上げるとEちゃんは涙を流しながら、とっくに傷跡なんてなくなっている私の左手首を撫でて「こんなの、つらすぎるよ。よく頑張ったね。よく生きててくれたね。もう痛い思いなんてしなくていいんだよ」と言いました。

彼女のそのひとことと仕草に、中学生の私がようやく救われた瞬間です。そのときからずっと彼女は私にとって一番大切な人になりました。
同時に、彼女の恋人に対する嫉妬や憎悪もまた生まれました。なんで私はあの子の一番になれないんだろう、とどうしようもない気持ちになりました。男性でない私は彼女の隣に立つことはできないと考えるだけで心が痛みました。彼女ののろけ話を聞くたびに胸がちくっとしたけど、「ああ、私ではこんな幸せそうな顔にしてあげられない」と思い、気持ちを封じ込めることにしました。



その後しばらく経って別の男性とお付き合いをし、その頃にはなぜか男性器への抵抗感がなくなっていたため無事体を重ねることができました。というか今考えるとむしろセックスに依存しかけてたかもしれない。シンプルに互いを求め合う構造と、相手の体が自分の中にあるという充足感に酔っていたのかもしれません。初めてのことだったし。
そんな風に普通に男性と交際して、普通に就職して、普通に年を重ねて、Eちゃんとは物理的な距離は離れててもお互い良い友人としてやっていければ一番綺麗に収まるんじゃないか。なんて考えていたものの、就職はうまくいかず、彼氏にもフられ、修論執筆のための研究も進まず。またEちゃんに相談する日々へ。ああ、やっぱり私の心の真ん中にいるのはこの子なんだ、と封じ込めていた気持ちが少しだけほどけました。そしてまた「でも私はこの子の一番には決してなれない」と考えて落ち込む、の繰り返し。


時が経ってようやく「あなたに何と思われていても構わないけど、私にとってあなたが一番大切な人」という境地に至ったものの、たまに思い出したかのように愛されたいという気持ちが湧くように。でも年を重ねることで周りでは「マジョリティであるシスジェンダーヘテロセクシャルの結婚、妊娠、出産」といった情報が溢れるようになり、私もそういう「よくある幸せ」に憧れたりしました。就職してからそのへん揺らぎまくりよほんと。


そして今年の晩夏、楽団の後輩から「カランコエの花」という映画を紹介されたのがひとつの転機となりました。
kalanchoe-no-hana.com

あまり話すとネタバレになってしまうのですが、登場人物のひとりが好きな人(同性)への思いを語るシーンと、その相手に無言の告白をするシーンと、自己破壊的なカミングアウトを行うシーン(※劇中の順番はこの通りではありません)が非常に切なくて。この映画は「セクシャルマイノリティを取り巻く周囲の人間の視点」にフォーカスを宛てた作品ではあるものの、私は同じくセクシャルマイノリティである登場人物の気持ちが突き刺さってしまいました。「好き」を秘めざるを得ない環境と、それでもやっぱり伝えたいという思い。あなたを好きな私がここにいる、と知ってほしい気持ち。ああ、私もずっとそうだ、と。これをきっかけに、自分の正直な気持ちに向き合い始めることを決めました。

就職してからはEちゃんとはずいぶん離れたところで暮らしていたのですが、この映画に出会って1ヶ月ほど経ったとき、タイミングよく別件でEちゃんが一人暮らしをしている土地に行く用事ができて、これは今しかない!と思いました。どんな結果になってもいいから、ずっと募らせていた思いをちゃんと伝えたい。

彼女の家に泊まり、大学生のときと同じようにひとつのベッドに二人で寝て、同じように抱きしめられながら、声を絞り出すように告白しました。どんな言葉でどこまで話したのか、必死すぎて覚えていません。ただ、何と返されたのかは覚えています。若干言葉尻は違うかもしれないけど。

「私は男女とかあんまり考えない方ではあるけど、やっぱり男の人が好きだし、今も好きな人がいるから君の恋人にはなれない。でも、そのままでいいよ。おかしくなんかないよ。またいつでもうちにおいで」

恋人になれないことなんてどうでもよかった。ただただ受け止めてくれたことが嬉しくて、その夜は27年の人生で一番幸せな夜でした。全然眠れなかったし。寝顔めちゃくちゃ可愛いし。

彼女は他にも私のコンプレックスである体型を「太ってないよ、女の子らしい可愛い体つきだよ」と言ってくれたり、いとも簡単に呪いを解いてくれるんです。きっと彼女にとっては何でもないひとことで、でも私にとっては魔法みたいで。運命の人、だなんて思ったりもする。けど、良き友人としての在り方を続けられるだけでも嬉しい。あの日から割かし頻繁にLINEで会話できてて、比較的幸せな日々が続いています。でも反動で(?)午前中に動悸が激しくなることもあるので、決して健康とは言い切れないのがつらいところ。楽しいんだけどね!そのへんはフレックスな今の会社の文化に甘えさせていただいてます。



私はセクシャル・フルイディティ。この日々が今後どうなるか、もっとすごい運命の人が現れるのか、この先必ず揺れてしまうことがあると思っています。彼女が結婚したり子どもを産んだりしたら私の気持ちがどうなるかも分からないし、ひょっとしたら私自身が男性とお付き合いしたのち家庭を持つかもしれない。
でも、自分が揺れるものであるという前提を持つことである意味楽になりました。

また、一番大切なあの子1人が受け止めてくれたという事実で、自分がマジョリティでないことを知られたとして後ろ指さされようがどうだっていいや、という気分にもなって、会社のSNSで映画の宣伝をしつつカミングアウトしてみたり。たぶんマジョリティの皆さんってこういう人間がすぐ近くにいるって意識してないと思うから、割かし「お前らホモかよwwww」みたいな感じでネタにする人や「女なら当然○○だろ」みたいなこと平気で言う人いるんですよね。そういう環境にちょっと一石を投じてみたくなりました。


性別、性自認、性指向といった枠や恋愛感情や性的欲求(いわゆる本能みたいな。生物学的におかしいとか言うやつ、私より生物学の知識が劣ってたら〆るからな!)の既成観念にとらわれず、個人が個人として扱われ、のびのびと生きられる環境になるよう少しでも貢献できたらなあ、と考えています。
転職もいいけど、まず自社内でちょっとはたらきかけてみようかな、なんて。アクティブになることやカミングアウトすることが必ずしもいい訳じゃないし、埋没して生きたい人や面倒な存在と思われたくない人もいると思うので、慎重に。



…とまあ、自分語りがいつも以上に長くなりましたが、とりあえず「カランコエの花」はセクシャリティにかかわらず名作中の名作なので、皆様も是非観てくださいね。何よりも濃密な39分です。
kalanchoe-no-hana.com