せきららキララ

木ノ子が生い立ちとか色々と自分語りするだけのブログ

雨降って固まらず

生年月日やら何やらを元にした占いでは必ず「土」や「地」という属性に分類されることでおなじみのわたくしです。今日は特に構成もなくつらつらと書き散らすわよ。

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土属性あるいは地属性、ほぼ確実に主人公にならないよね。敵サイドに多いか?味方だとしたら目立たないけど強キャラみたいな立ち位置な気がする。ONE PIECEのクロコダイル(砂だけど)、魔法先生ネギま!のフェイトくん(石だけど)、鬼滅の刃の悲鳴嶼さん(岩だけど)。ポケモンのタケシ、あれもいわタイプか。じめんタイプはサカキ、これはラスボスのパターン。私はどれパターンだろうか。タケシぐらいのポジションが近いのかなあと思いつつ、大多数の土属性の人間がクロコダイルやサカキだったら困るだろ、そらタケシが一般人に一番近いやろ、と思うなどした。


閑話休題


占いでは、土や地の属性には「安定感」といった概念がしばしば結びつけられており、しかしながら私は心身ともに全く安定しているとは言い難いのである。「地元の国公立を出て公務員に」という親類の希望をはね除け、十分合格圏内であるとは確信できない京都大学の受験を経て単身上洛し、今は会社を辞めて東京でひとり無職をやっている。傷病手当金はあと3ヶ月ぐらいで切れてしまう。月単位での気分の高低差がなくなったことは勿論ない。結婚や出産で身を固める(という考え方はあまり好まない)どころか、好きになる対象の性別すら決まっていない。流動的なのだ。しかしながら突飛というほどではないので、風属性ではないのだろう。常に変化し続けている訳でもないので、水属性でもあるまい。となると、ある程度の流動性を持った土という概念に相当するもの、すなわち「泥」に近いのではないかと思った。
もったりと重くて柔らかい土。今この瞬間も布団の中でもぞもぞとしている。泥中のメタファーか。ある考え方では泥を汚いものとし、その中でさえ咲く美しいものとして蓮の花が引き合いに出されるけれども、残念ながらそういった花は自分では見出だせていない。もしかしたらあるのかもしれないが、土中で生きるものは視覚が退化している種が多い。自分の体が見えない、見る必要がないのだ。事実私は自分の身体を自分のものであると強く認識できないところがある。鏡、見ますよ。髪を整えたり化粧をしたりね。でも脳がモザイクをかけるんだ。だから、写真や映像で見る自分が気持ち悪い。見映えの問題ではなく、客観的にそう見えているという事実を突き付けられるのが苦しい。化粧の仕方を変えるなり減量するなり整形を受けるなりして見た目を変えてしまえばよいと言う人もいるかもしれないが、そうじゃあないんだ。理屈は分からないが、自分が形を持っていることに耐えられなくなるときがある。やはり正しく泥なのかもしれない。

ときたま、そんな泥に触れてほしい、掬ってほしい、と思うことがある。汚れてもいい、沈んでもいいと思ってもらうだけの人間関係を構築するのは至極困難で、けれども、もし私に手を伸ばして輪郭を与えてくれる奇特な存在がいるのなら、その瞬間に死んでしまってもいいとさえ思えるのだ。どこかの神話や宗教のように、捏ねられて形をもって生きていくこともできるのだろうけど、ぐずぐずに崩れてしまう未来はいつも頭の片隅にあって。

これらは全く科学的ではない、情緒の問題だ。すべてメタファー。そう割り切ることもできるんだ、私は理性と知性が強いからね。なんて言うのは虚しいジョークでしかない。誰だって根底にあるのは情緒だよ。いくら理論を鎧兜にしようが固いものにぶつければ中身はぐしゃぐしゃになる。中学生の頃、交通事故で脳挫傷となり亡くなった同級生がいた。脳挫傷の説明として、弁当箱に入れた豆腐をひょいと投げると弁当箱は割れないけど豆腐は崩れる、と言われたことがある。それと同じだ。俗っぽい言い方をすれば豆腐メンタルなんですよ。せめて湯葉になるか、いっそ豆乳に戻れれば「崩れる」ことはないのにね。人生はいつだって不可逆だ。いつかこの時間を無駄だったと思う日が来るのだろうか。たぶん、外から見てそうだと思う人はそれなりにいると思う。でも人生に意味なんてないし目的なんてないよ、生まれ落ちてしまった、ただそれだけ。それだけのことが、こんなにも苦しいのはどうして?